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さて、今日のトピックは江戸時代の仕置き「敲(たたき)」です。一般的にも、時代劇や時代物小説が好きな方は普通にご存じかと思いますが、知らない方は全く知らないでしょう。というか読めないでしょう。
要するに鞭(笞)打ちの刑ですが、日本の歴史の中で一体どのような意味を持つのでしょうか。
日本史担当和泉でっす
さあ、行ってみましょうか
「敲く(たたく)」は普通の「叩く(たたく)と同じ意味です。
別に「敲」が「叩」の旧字体とかではなく、そもそもの漢字の持つ意味は違います。しかし、現代日本語としては「叩」と「敲」はほぼ相互互換ですね。
とはいえ、この漢字を現代日本語で普通に使うのは「推敲(すいこう)」くらいですね
ちょい古の官能小説なんかだと、「尻を叩く」ではなく「臀を敲く」なんて書いたりすることもありますが、慣れてないと厳しいですね。この固さからエロを感じられるかといわれると…… 自分には無理ですが、でも官能小説では「臀肉」とかよく見ますし、何かしら琴線に触れる人もいるのかなと思います。
……、まあ、むしろ個人的には「しりたたき」みたいに全部ひらがなの方ががキュンとくるので好きです。
敲という刑罰は、その名の通り叩かれる刑罰です。小伝馬町牢屋敷の表門の往来の前で、服を脱がされてうつ伏せに押さえつけられ、尻と背中を箒尻という道具で、ビシビシ叩かれます。
50回叩かれるのを軽敲、100回叩かれるのを重敲と言います。基本的には男性への罰ですが、そのあたりも後述します。
そして業界では敲と言えば、実写映像化もしているこちらでしょう。むしろこれ以外はほぼない……
『子連れ狼』御定書七十九条、小島 剛夕/小池 一夫、双葉社
なんか簡潔なご説明付きでありがとうございます
あ、さっそく尻じゃなくて臀(しり)だった……
キーが本サイトのレギュレーションぶっちぎっていますが、そもそも未遂(もしくは狂言)シーンなのでご容赦ください。
あ、ちなみに……
実写ドラマ版の『子連れ狼(萬屋錦之介版)』では、原作と違って未遂ではなく普通にビシビシ生でお尻を叩かれています……
さて、この子連れ狼、『御定書七十九条』というタイトルの回です。そしてこの”御定書”というのは、日本史の教科書に載っている、徳川吉宗が定めた「公事方御定書」のことです。
「公事方御定書」
マツケン、もとい8代将軍・徳川吉宗が定めた法律。それまでの見せしめ的な罰から、犯罪者の更生を図るような、思想的大規模アプデを図った法律。
急な日本史用語で恐縮ですが、ちょっとこいつが結構日本の刑罰史においてかなり重要なポジションにおりまして、触れた方が良いかなと思っています。
江戸時代には「敲」という裸にされてビシビシ叩かれる刑罰があったよ。
というわけで道具担当七峰です
まず、箒尻というアイテムを知るところから始めましょう
箒尻というのは、江戸時代に使用されていた責め道具です。別に「箒で尻で打つ刑罰」ではないです。
……いや、箒で尻で打つ刑罰でもあるのですが、箒尻は道具の名前であり、箒尻の尻は人間の尻ではなく、箒の端ということです。尻が入っているのはたまたまです。
ニホンゴ、ムズカシイネ
江戸時代の「箒尻」は、長さ一尺九寸、廻り三寸ぐらいの竹を二つに割り合わせて麻苧で包み、そのうえをかみこよりで巻きかため、手元の握り部分五寸ほどを白革で巻いたものである。紙こよりの巻き方に口伝がある。
『拷問刑罰史』(名和弓雄 2022、雄山閣)
先端は麻苧が一寸から一寸二分、紙こよりを巻いた先からはみださしてある。柄尻は六分はみ出す。
麻苧:あさお。麻で作った紐。神主が振り回す、ファサファサしたものは大麻(おおぬさ)って言いますが、今時は紙垂(しで)と呼ばれる紙を付けていますが、以前は麻苧を付けていたりしました。神性がある素材です。いや、箒尻は神具じゃないけど。
文章で説明されても、いまいちピントこないですね。
なんですか「先からはみださしてある」って
箒尻自体、責め絵とかな出てくるかもですが、時代劇じゃなかなか見られるものじゃないですから……
こちら、古めのエログロ系の写真集でちょっと際どくて申し訳ないのですが、とても分かりやすいものがあるので引用いたします。
『残虐の女刑史』 井上橘泉著(綜合図書, 1971)
そう、こんなやつ!
さあみんな、この道具を見てどんな印象を受けた?
はい、和泉さん
え!? えっと……
あ、ほんとに「先からはみださしてある」!
なにそのくだらない回答!
道具愛が足りない! この後お尻ペンペンね!
なはっ
写真を見て思った人もいるかもですが、結構短いんですよ。上でも書いた通り、「長さ一尺九寸」、つまり約60センチ弱。中韓ドラマの杖刑シーンに出てくる迫力あるデカブツを想定すると、その短さに肩透かしを食らいます。
李氏朝鮮での尻叩きの刑、とその道具に関する話は以下の記事で。
箒尻のこのサイズに関して、國學院の法学部の記事では以下のように説明されています。
敲に使うムチは藁で出来ていて1尺9寸(約57cm)と短かったのです。そのために、打ち手はひざまずいてムチを振り落とさなければなりませんでした。これは、受刑者の弱り具合を間近で見ながら、相手に合わせた強さで敲く狙いがあったと考えられます。
國學院大學メディア 「百敲(ひゃくたたき)」の刑、吉宗は計算ずくだった
なるほど。
ちなみに、1尺9寸ってのは、日本刀の中でも大脇差と呼ばれる刀のサイズです。叩き役の同心にとっても扱いやすいサイズだったのでしょうか。
これはもう、飛鳥時代の大宝律令からそうですが、法律っていうものは、刑罰に使う道具のサイズもちゃんと規定しているわけです。適当にそこらへんの棒で叩くわけにはいかない。実際にその通りのものを使っていたかは、誰にもわかりませんが、少なくとも名目上は。
敲では、箒尻という鞭が使われていたよ。
では、もうちょっと箒尻の材料について、深掘りしてみましょうか。
やあ、みんな、再び七峰だよ
そもそも江戸時代に使われた打ち物系の責め道具って、こんなものかと思います
“ささら”ってのは、竹の先を細かく割ったり、細く割った竹を束ね合わせたものですね。ちっちゃいやつは掃除に使ったり、楽器としても使用されました。
「ささらでの尻叩き」というとおんだ祭りのような祭事が思い浮かぶ方もいるでしょう。
……むしろ、大きいささらって、お尻叩き以外にどんな使い道があるんですか。教えて。
欧州で使用されていたバーチロッドと同系統の道具ですね。
ここで重要なのは、日本では「竹」という素材が多用されていたという点です。箒尻や、ささらはもちろん、弓や馬具の鞭もです。
もちろん、別の木が使われることもあります。しかし、
こんな、神素材があるのであれば、そちらを用いるのは自然な流れです。
実際、馬鞭自体も、弓から作られることもありました。
つまり… 弓という武具は消耗品であって、使い続けたら折れてしまいますね
それを責め用の鞭として利用したり、馬用の鞭として再加工して利用したり、馬用の鞭として再加工したものを責め用の鞭として利用したり、
というわけです
竹が身近な日本人としては分かりやすいと思いますが、竹製道具の威力は、軽さから来るスピードにその固さが乗ったものになります。
「重さ」が欠けているので木材に比べて殺傷能力が比較的低い、鞭としての目的に向いたものになります。……いや、もちろん使いようですが。ちなみに、竹のお仕置き道具が活躍するのは、江戸時代だけではありません。
こいつがいますね。
上でも触れたように、竹は素材としてとても高性能なので、日本の、特に庶民の生活や文化を支えていたわけね
江戸時代って2000年くらい前だっけ? そんな昔から、すごいね
こいつの知識の偏りおかしいだろ
ちなみに、
こういった、奉行所が扱う刑具は、御用達の職人がいます。箒尻を奉行所に納めていたのは、穢多頭の弾左衛門という人でした。弾座衛門は世襲で、明治維新の時点で13代目となっています。
刑吏系の仕事は、古今東西、被差別階級の人間が行う事も多いですが、この箒尻については、穢多が竹細工の独占権を持っていたことも理由の一つです。
動物の革加工は仏教的に嫌われていたのはご存じの通りかとも思いますが、「竹」も刑場の柵や護送籠、竹の拘束具などなど、御仕置に繋がりがある素材でありました。生命力と穢れを包含する、とても興味深い植物です。
三箇所の谷之者は、竹という歴史的に被差別性を担った植物とも関わっていることに注目した。奈良の谷之者は主に竹を運搬したことが記され、高野山では僧侶の行列の先払いを谷之者が行うが、彼らはその際青竹を持つ。江戸の谷之者は、罪人の引廻しや刑罰の執行において様々に竹を用いたのである。被差別と竹細工との関係は多くの研究で指摘されながらも、その淵源について明解な理由は見出されていない。
『三つの谷之者―竹の表象から』内藤久義
ヨーロッパは鉄の文化です。拘束具や刑具も鉄を使用したものが多いです。一方で日本の竹は、それに代わるものだと言えるでしょう。
不思議なことに、弾左衛門は穢多という差別される階級でありながら、竹や革の加工販売の独占権を持っていたことで、大きな財産を持っていたのです。
動物を殺した革を扱うのは不浄とは口で言いつつも、幕府は武具に欠かせない皮革を手放せなかったわけです
表向きは毛嫌いされていても、裏では皆ズブズブだったりするのは、世の常ですね
それはFANZAのことですか?
それともメンエスのことですか?
日本では竹という植物が御仕置と密接なかかわりを持っていたよ。多分今も。
では、道具から一旦離れて、ちょっと法律の方に移動しましょうか。
突然、笞打ちの刑が江戸時代に導入された理由について、ちょっとだけ順を追って説明したいです。
そもそも戦国時代は殺るか殺られるかの環境であり、大名は力をもって押さえつけ、治安を維持する必要がありました。その流れを受けた江戸時代初期も、ぐじゃぐじゃな社会を制御するため、刑罰は見せしめ的に残虐なものを用いたわけです。犯罪者にはスナック感覚で死んでもらいます。
「イッヌを叩いてはならん!」とか、都度のノリの典型的なやつね…
しかし、江戸時代も半ばになり、平和になってくると、残虐性で治安を保つ必要もなくなります。むしろ、お上が残虐であると庶民の反感を引き起こし、社会不安の元となりかねません。8代将軍徳川吉宗は、それまでのようなノリかつ都度のお触書制から、現在の法律に近い体系だった法制度を作り上げようとしました。
子供の頃から法律マニアだった吉宗。彼はちょっと前の明の法律である明律を研究し、巨大国家を治めるべく作られた法律を取り込み、それを日本風に大胆にアレンジしていきます。
吉宗は、長崎に滞在していた清の儒学者・朱佩章 に、法律について様々なことを尋ね、その問答は『仕置方之儀付朱佩章江相尋候問答書御控』にまとめられています。その中では中国の杖刑に触れているところも。
<吉> 博奕を打った者を板で二十回あるいは鞭で五十回打つということだが、「二十板の刑」と「五十鞭の刑」ではどちらが重いのか。
『江戸時代の罪と罰』 氏家幹人, 草思社
<朱> ほぼ同じ程度です。鞭は皮製で打たれても板ほど痛くありません。
清の法律では、このような打数の換算がシステマチックに行われるようになっていました。一方でそれを日本に取り入れる際は、笞刑、杖刑のうちの「笞」のみを取り入れ、それを「軽敲(50打)」「重敲(100打)」というようにカテゴライズすることで罪の軽重に対応させています。
重敲は、またの名を百敲です。現代の「百叩きの刑」という表現の先駆けですね
8代将軍徳川吉宗は、中国の法律を参考に、戦国時代の慣習から日本の法律を合理的にアップデートしたよ。
さて、徳川吉宗が先進的で優秀だったことは分かりました。しかしそんな彼が導入した罰が棒でビシビシ叩く刑と言われると、なんだか違和感があります。
吉宗への信頼が過ぎる!
それまでの罰は、追放刑(払い)が主流でした。なお、この世からの追放を含みます。島国農耕ムラ社会の特性として、和を乱す犯罪者に対しては、
のどちらかというと、追い出す方を選ぶ傾向があります。物理的に追い出す、江戸払い、遠島のようなものに加えて、論理的に追い出す村八分のようなものもありますね。
もうちょい客観的なデータ欲しいなと思い、本を漁ってみました。以下は江戸時代全期を通じて、全国の村法1262点を分類、適用記録をまとめたデータです。
制裁名 | 適用回数記録 |
---|---|
死罪 | 2 |
打擲 | 2 |
入寺 | 5 |
村八分 | 23 |
追放 | 71 |
過料(貨幣/米/酒等) | 489 |
『事典しらべる江戸時代(柏書房)』より
打擲=叩く罰って、江戸時代の村での制裁として普通にありそうじゃないですか。しかし(少なくともルールとしては)はじき出す方が主流です。実際、一心同体コミュニティの運営においては、そちらの方が理に適っているのかもしれません。
江戸時代のような閉鎖的な社会ではコミュニティから追放されることは、正業では生活できないことを意味します。よって、コミュニティを追い出された大部分の者は、浮浪者やさらなる犯罪者になってしまう問題がありました。治安の悪循環です。
それに、追放された奴らに来られる隣の地域もいい迷惑ですよね
ここに来て、徳川吉宗が笞刑を法制化した意味が出てきます。つまり、社会が安定して来るに伴い新たな選択肢が生まれてきたのです。それが
ということ。
大事なのは、笞打ちを現在の価値観で捉えないことです。
のどちらがより非人道的かと言われると、ぱっと見では前者の方に思えますが、野垂れ死にかねない時代においては、必ずしもそうではありません。
対象者のみならず社会の安定性など、様々な要素を考慮して導入されている場合もあるということです。
「昔は鞭打ちなんて野蛮な罰があったんだぜ」で終わらず、スパ屋さんとしては、その意味や背景を深掘りしてみると、面白い発見があるのではないでしょうか。
もちろん現在のことに関しては、現在の価値観で見ましょ
あ、「二重御仕置」と言って、敲+追放、等の複合で処す場合もあります。
敲は、当時としては罰を受ける本人や社会のことを考えた画期的な罰だったよ。
古代日本の律令における笞刑、杖刑では女性も刑の対象であることが分かっています。例えば、平安前期に記された類聚国史では、殺人犯の従犯として、当麻旅子女が市で公開で杖六十の刑に処されたことが記されています。
実際、女性は笞刑の対象に明示的に入っており、実施の記録も幾分存在しました。古代中国での笞杖刑でも同様です。
一方で、江戸時代の敲は……
女性は明示的に刑の対象外とされています。
入墨重敲叉ハ敲ニ相當之女御仕置段取之亊
敲ニ當り候女御仕置ハ大人幼年ニ不限百敲ハ百日五十敲ハ五十日過怠牢二而も可有之哉ニ御座候…極置候樣可仕哉奉伺候以上
(徳川禁令考, 後聚第六帙卷三十六)
とありますが、女性が重敲、つまり百叩きの刑に相当する場合、代わりに百日間の過怠牢(牢屋にぶち込まれる)という仕組みになっていました。
1 tataki = 1 day の換算レート。
古代の笞刑では男女の区別なく、さらに江戸時代も敲以外の、例えば死罪レベルになるともちろん男女差はありません。
なぜ敲の適用に差が生まれるのかに関しては、さらっと調べた感じでは儒教の影響をという説明がよく見られました。儒教的な道徳観・家族観に基づいて女性は庇護するべきということです。
他に江戸時代で男女差が生まれやすいのは不倫系の罰とかですね
その辺も儒教感がある……
ただ、それは学者さんたちが何かしらの歴史的文脈で説明をしたらそうなるということで、普通に肉体的な構造(耐久度や体調周期)は違うので、実際的に理にかなっていないわけではないですね。
ただし、女性は敲じゃなくて牢に監禁だから楽かというと、別にそうではない。
江戸の牢屋が安全なわけがない。お上に尻を打たれずとも、尻を打たれないとは限らない。むしろ、刑罰として管理されていないだけ、リミットがありません。
これはもう少し先の項でまた説明していきます。
ちなみに、この女性は敲ではなく禁固とする、という話は本屋の一般向けの歴史の本には結構書かれているのですが、そのソースが「徳川禁令考」という明治時代にまとめられた歴史資料くらいしかないんですよね。後世の資料オンリーで、当時の法律に明記されている、本当にそうだったのだろうか? と素人ながらに思います。どこかに書いているのだろうか。
敲は、女性は刑の対象外となって、代わりに禁固刑となったよ。
ここで上がるのは、スパにもちょいちょい絡んでくる問題です。それは、
アニメやドラマなどで、同じ違反なのになぜか男子だけお仕置きされる問題
一部の人を憤慨させ、一部の人は逆に興奮するやーつ、です
あまり最近は見ないですかね。すくなくとも体罰描写自体ないですし。令和の今時、体罰以外の罰で男女差があったら、流石に「おかしいだろ」とはなります。
いえ、昔から「あれ?」とは思いつつも、「でも、そんなものか。女の子だしね」で流れてしまう。
ここの考えは色々とあります。
英国寄宿学校でケインで打たれるということは、そもそも教育の格差があるということ。体罰合法の州がある某国では、当たり前ですが男女による罰の区別はつけません。しかし、ルールと気持ちは別物で、女の子に手を上げるなんてクソ野郎だ、と自分のお尻を身代わりにするトム・ソーヤー君もいます。
そこの考えの仕組みをもうちょい可視化したかったのですが、難航しています。
ちなみに皆さん、
この台詞、何度も聞いたことはあると思いますが、意味が分かりそうでよくよく考えると謎です。
一方で、平成一ケタの管理人の子供の頃、稀に体罰に遭遇することはありました。が、F/fはあってもM/fを見たことはないです。
大人の男性が女の子に手を上げるのはNG、みたいな共通認識でもあったのでしょうか(いや、何にせよ当時からNGですが)
むむむ
でもですよ、責め絵にあるような妖艶な白襦袢の女が縛り上げてビシビシ打たれるシーンのは幻想だったのですか
あ、いや、それ、敲じゃないです。
拷問です。
江戸の用語的には、正確には拷問ではなく責問です。
責問 < 拷問
で、責問は町奉行の判断で行え、拷問は老中の許可が要りました
笞打ちは責問の第一ステップになります
とはいえ、現代の言葉としては全部広義の「拷問」です。拷問に男性も女性も関係ないです。叩かないと自白しないなら叩くしかない。
いわゆる「緊縛」、特に吊り系の責めは、基本的にはこちらの責問・拷問を起源としているわけです。
「吊る刑罰」なんていうものはなく、あくまでも(BDSM的に言えば)ストレス・ポジションを課すことで自白を引き出す手段にすぎません。
敲というのはルールで定められたただの刑罰の一つであって、そこに当てはまらない笞打ちなんていくらでもあるでしょう。
ここまであれこれ説明してきて、そんな雑なっ
刑である敲は女性は免除されたけど、刑を決めるための拷問は男女関係なかったよ。
冒頭に『御定書七十九条』というタイトルに触れました。この79条とは何かというと…
拾五歳以下之者御仕置之亊
すなわち、15歳以下を子供と見なし、どのような罰を与えるかを定めた項目になります。殺人の際は親類預け置き、遠島。盗みの場合は、大人の御仕置より一等軽くする、など。
この15歳がお仕置の境目ということで一番有名なのは創作のモデルにもなっている放火犯・八百屋お七です
奉行がお七に「お前は15か?」と聞いたけど、正直に「16だ」と答えたので、死罪にせざるを得なかった、というお話
子連れ狼の『御定書七十九条』については、これは1772年の追加項目が絡んできます。(吉宗の死後ですね)
一 幼年之もの敲之儀拾五以下ニ而も敲可申
つまり、15歳以下の者も敲に関しては適用するということです。
これは敲だけです。それ以外の罰は、基本的に大人のものから一等減じる決まりなのに、敲だけが子供にもそのまま適応なのは、教育的な意図もあったと思われます。現代日本語で、辞書的には体罰を意味する「おしおき」に繋がってきますね。
あ、いずれにせよ、15以下の女性は禁固となります。
江戸時代、男の子は大人の刑より一段階軽くなる規則だったけど、敲だけはそのまま執行されたよ。
さて、次のトピックに行く前に、江戸の牢屋とは何かを説明しますね。
江戸時代の御仕置を理解する上で、とても重要なことがあります。
近世の牢屋というのは、未決囚(罰の内容が決まっていない囚人)に対する留置所
という立ち位置でした。
ここでは、近世=ざっくり江戸時代 と考えてもらえればおけ
これ、多分盲点、というかあまり意識したことないかもですが、例えば時代劇でも、お奉行様が「お前を3年間の禁固刑とする!」みたいな刑を言い渡すこと、見たことなくないですか?
だって、基本的にないんですよ、その刑罰。
牢屋に閉じ込める刑、というのは、公事方御定書では、過怠牢(有期)/ 永牢(無期)というというものですが、これは例外的に課される罰です。
永牢というのは、本来では死罪になると事を、情状酌量などで一等を減じられて適応されたり、遠島ができない場合に行う類のものです。
また、過怠牢も、先ほどお話ししたように、敲に相当する罪にたいして、女子供の場合に代替として課されるものだったりします。
だって牢屋に入れといても邪魔じゃん
江戸の牢屋敷なんて、狭くて入れる場所ないし、そもそもわざわざ食わせなきゃならんし
しかし、この牢屋、留置所のくせに人が溢れているため、管理のため牢内での囚人間で自治を許容していました。そのボスはいわゆる「牢名主」様といわれるものですね。登場する大体のシーンで、畳を重ねて上に座っています。
新入りの囚人は、命の蔓たる「ツル」、すなわち金銭を献上できないと牢内で酷い目に合わされるわけです。
『因習秘録 みだれまんだら』3, 八月薫, 粕谷秀夫、リイド社
江戸時代は牢屋は一時的な留置所で、そこには牢名主を筆頭に囚人たちの自治が敷かれていたよ。
「ツル」を持ち込むか、持ち込まないかに関わらず、儀式としての尻叩きも存在していました。
古今東西お馴染みではありますが、念のため復習しましょうか。この手のお尻叩きは「イニシエーション」と呼ばれる類のものですね。イニシエーションのスパンキングって何?という方は以下の記事を参照ください。
この牢における尻叩きを描写した山田風太郎の作品があるので、ご紹介しますね。
一日おいて、このおんな牢に新入りがあった。
「南町奉行大岡越前守さまおかかりにて、武州無宿お竜、十九歳」乞食の女房は、江戸市中の乞食の女房で、おんな牢付人といい、ふだんから予約してあって、一ト月交代で、女牢のなかに暮している。これが牢の外で、新入りの女囚をはだかにして、法度の品を身に着けていないかどうかをしらべる。法度の品とは、繻子、縮緬、羽二重、金銭、刃物などだが、これは一応の名目であって、黒繻子でも黒ぎぬといい、島縮緬でも島ぎぬといえば合格するし、刃物はともかく、金銀のたぐいは禁制品どころか、これを持ってこなければ牢内で半ごろしの目にあわされる。
そうして乞食の女房の身体検査がおわると、新入りははだかのまま、着物に、帯、腰巻、草履などをくるんで「はいれ」という声で小さな戸前口を入ろうとするところを、うしろからドンと蹴飛ばされ、つんのめったあたまへ、牢内で待っていた女囚が、ぱっと獄衣をかぶせ、むき出しのお尻をキメ板で、ピシャリピシャリとなぐりつける。―これがおんな牢新入生の受くるべき荘厳なる入学式だ。
『おんな牢秘抄』(山田風太郎、角川文庫)
ちなみに、上記作品は実写化しています。
『おんな牢秘抄』と『おんな牢秘抄Ⅱ』がありますが、どちらも板で叩かれる洗礼があります。
でも個人的には、すっぽんぽんでお尻を蹴飛ばされて牢にぶち込まれるのがわかりやすくぐっとくる。
ちなみにキメ板というのは、そこに欲しいものなどを書いて牢番とやりとりをする、メッセージやり取り用の板……
と収監されるプロである、吉田松陰は説明しています
牢屋にぶち込まれた新入りは、尻叩きを含めた色々な洗礼を受けたよ。
今回は江戸の御仕置の敲をメインに色々と見てきました。
スパ要素はあまりないものの、日本史的には外せない、かつ、今後の他のトピックへの発展もしやすいので、一旦取り上げてみました。
江戸時代の刑罰は残虐だ、みたいに言われるとまあそりゃ今からすればそうなのですが、とはいえ太平の時代であるのもあり、ちゃんと状況に応じて情状酌量なども行われていたわけで、当時なりの理にかなったやりかたではありました。
日本史スパは、やはりなかなか資料が少ないのが難点ではありますが、もうちょっとだけネタはあるので、順次まとめていければと思います。
ではまた!