フロイトが見出した子供の中の「お尻ペンペン空想」:『子供が叩かれる(1919)』を読み解く

フロイト_子供が叩かれる

本ページはフロイトの著作『子供が叩かれる』(“Ein Kind wir geshlagen”, 1919) の、ざっくりとした読み解きを試みた企画です。何人ものフロイトの患者が告白する幼少期の「お尻ペンペン」の空想。フロイトはその空想が持つ意味を探り始めます。

100年以上前の論文であり現代の考えとはそぐわない場合があること、また管理人はフロイトの専門家じゃないので、解釈違い等があるかもしれないこと、ご了承ください。

吉川

こんにちは吉川です。さて、今回は私とフロイト先生の対話形式で話を進めていこうと思います

じゃあフロイト先生、よろしくお願いします!

ジークムント・フロイト

うむ、諸君、ワシが精神科医のジークムント・フロイトじゃ。では、早速話をしていこう。

目次

フロイトが発見した「子供時代のお尻ペンペンの空想」

ヒステリーや強迫神経症なんかでワシの治療を受けに来た患者たちが、小さい頃に「子供が叩かれる」という空想をしていたと告白するケースがよくあるんじゃ。ワシが直接見ることはない、精神的病気がない人間も、実は同じような空想を持っているんじゃないかとワシは踏んでおるぞ。

この「子供が叩かれる」空想は、一種の「快感」が結びついていて、それゆえ頭の中で何度も何度も繰り返される。だが、この空想は大きな羞恥と罪悪感を伴うため、他人に話すのはなかなかためらわれるじゃろう。

吉川

でも、患者さんの小さい頃の妄想……って一体どのくらいの頃の話ですか?

この種の空想は学校に入るくらい前には表れ始めている。そして、学校に行き始め、他の子供が先生にお仕置きとしてぶたれているのを見ると、その「空想」にはっきりとした形を与えるのじゃ。

そのため、ワシの患者たちは、この空想の原点が学校に入ってからだと思っていることが多い。だがしかし、ワシはそれよりももっと以前に形作られていると思っておる。

また高学年になっていくと、「子供が叩かれる空想」にエネルギーを与えてくれるのは、現実のお仕置きの目撃から、創作物に移り変わっていくのじゃ。それは『アンクル・トムの小屋』のような小説だったり、子供同士のごっこ遊びの中での罰だったりもする。

吉川

フロイト先生はさっき、「子供が叩かれる」という空想は快感に結びつく、と言ってましたね

そうすると、学校で他の子供がお仕置きされているところを目撃するのも、快感が伴うものだったっていうことですか?

ワシも最初はそう思ったのじゃが、ヒアリングしてみると実際にはそうではなかった。現実で誰かが叩かれるのを目撃した場合は、嫌な気持ちを受けることも多いというのじゃ。また、子供たちが生み出す架空のお仕置きも、あくまでも厳しくないものというのが前提であった。

ここでワシは考えた。子供たちの「空想の中のお仕置き」「現実で受けるお仕置き」は、どう違い、また関連しているのだろうか、と。

2つの関係を考える上で、片手落ちになる問題があった。それはワシの患者たちは、子供時代の体罰経験が稀なやつばかりであって、「現実の体罰」側からのデータが欠如していたのじゃ。

吉川

まあ、1919年の西欧社会で精神科医にかかれる人なんて、上流階級のご令嬢とかだろうから、少なくとも、ぶん殴られて育ったとは思えないね

うむ、というわけで、ワシは実際の目撃や体験、小説などの外部創作からのインスピレーションを受ける前の、幼少期の本当にピュアな「叩かれる空想」にターゲットに絞ることにしたのじゃ。

そうして、「子供が叩かれる空想」をしていたワシの患者たちに様々な質問をしてみた。例えば……

  • 空想で叩かれているのは自分自身? それとも他の子供?
  • 空想で叩かれているのはいつも同じ子? 毎回ばらばら?
  • 空想で叩かれているのは男の子? 女の子?
  • 空想で叩いているのは大人? もしくは別の子供?

だが、ワシはこれらの質問の答えから、明確な法則を導くことはできなかった。つまり、「よく覚えていない」だとか「どっちでもよかった」とかそういう答えばっかりだったのじゃ。

吉川

空想内で自分が叩いているのかも叩かれているのかもはっきりとさせていない…… っていうことは、これが幼児期のサディズムかマゾヒズムかも明確ではないですね

あ! 主語がよくわからないから「子供が叩かれる」なんて受動態の変な題名なのか

変なとかいうんじゃない。ただ事実、唯一ワシが患者たちの幼少期の「子供が叩かれる空想」で見つけた共通点は、

「小さい子供が裸の尻を叩かれている」

という点だけじゃった。

吉川

つまり、子供たちの空想の中では、誰が誰を叩いているかは様々で合ったけど、お尻ペンペンであることだけは一致していたと

面白いですね!

幼児期の性倒錯

これまでのワシの研究に基づくと、そのような「子供が叩かれる空想」は、幼児期の「性倒錯」がたまたま水面下現れてしまっただけということになるんじゃ。この幼児期の性倒錯は、思春期になるにつれて消えるが、何らかの要因でフェティシズムのように、固着することもあるのじゃ。

吉川

だってさ。君たち聞いてる?

【性倒錯(異常性欲)】
そもそもフロイトによると、幼児期には、多種多様な欲が出現しており、それらの要素が成長につれ統合されて “正常な” 性欲となっていく。

しかし、何らかの要因でその中のひとつ、例えば肛門期の欲ががっつり固まってしまったまま成人すると、それが成人の「性倒錯」=アナルフェチのようになってしまう、らしい。

成長しても統合されずに、他に対してずば抜けて主張しまっている欲の対象は人によって異なり、露出欲だったり、他の部位への欲だったり、サディズムだったり、マゾヒズムだったりする、らしい。

3段階で発展する「子供が叩かれる空想」

ワシが大事だと思っておるのは、大人になって色々と蓋をして隠してしまった幼児期のものごとを、分析する努力じゃ。なにせ、物心ついた後のことは、患者自身が自分で説明できるからの。

そして、ワシは「子供が叩かれる空想」がそれ以前に存在した何かが発展して発生したものじゃなく、幼児期に何かが終わることで結果的に出現したものである可能性があると考えたのじゃ。仮説の検証をシンプルにするため、ワシは研究対象を「女性」に限定することにした。ワシの患者に女性が多くデータが取りやすかったのもある。

ワシは女性患者たちに子供の頃に持っていた「子供が叩かれる空想」を事細かにヒアリングした。そして、ワシは、その結果をもとに、少女たちが持っていた「叩かれる空想」が、幼いころから順に3つのステップを踏んで発展していることに気が付いたのじゃ。

第1段階の空想

自身の父親が、弟や妹などのより小さい子供を叩いている

第2段階の空想

自身の父親少女自身のことを叩いている

第3段階の空想

父親ではない大人が、だれか分からない男の子を叩いている

「叩かれる空想」第1段階:嫉妬心を満たす

少女が抱く「叩かれる空想」の第一段階は、自分の父親が誰かほかの子供、主に弟や妹を叩いているという空想に行きつくことが多いのじゃ。これは、子供の嫉妬心を満足させるものと言うこともできるであろう。

少女には兄弟姉妹がいる。少し年上であったり、ほんの少し年下であったりする彼らは、少女自身にとっては一種のライバルであり、両親の限られた愛情を奪い合う相手と言うことができる。

吉川

特に両親は、常に一番下の子にかかりっきりになる場合が多いだろうから、年下の弟妹に対する嫉妬心は特に強いものになりそうですね

うむ、だから少女は空想の中で、自分の弟、妹を父親に叩かせる。それは、実際に彼女が弟妹のお仕置きを目撃したかどうかとは関係ない、ただ自分の中の「お父さんが愛しているのは私だけだ」という願望であり、快楽のために、自分だけお仕置きをされていない状況を思い浮かべるのじゃ。

「叩かれる空想」第2段階:抑圧から生まれる

そこまでの段階で「子供が叩かれる空想」が語っていたのは「お父さんは私だけを愛していて、他の子は愛していない」ということであったな。これは、本人はお仕置きの執行者ではなく傍観者ではあるが、他人が叩かれている空想なので、サディスティックな空想と言うことができるじゃろう。

一方で第2段階に移行すると、父親に叩かれている対象が少女自身になるのじゃ。

吉川

つまり、サディスティックな空想が、マゾヒスティックな空想に変化する……?

なんで変わった?

サディズムがマゾヒズムに変わる切っ掛けは、常に「罪悪感」であるぞ。この罪悪感は、近親相姦的願望、つまりエディプス・コンプレックスからもたらされているものじゃ。

【エディプス・コンプレックス】
フロイトが提唱する、男児は父親を排除して母親に自分の子を産んでもらいたい、女児は父親の子を産みたいという衝動を持っているという考え。近親相姦(オイディプスの悲劇)を回避するため、心の中で抑圧される。

吉川

エディプス・コンプレックスに基づいて考えると、少女の中の「子供が叩かれる空想」は、次のような流れになるかな?

  • 父親は私を愛しているから他の子だけを叩く【嫉妬からの快楽】
  • 私は父親の子を産みたい【エディプス・コンプレックス】
  • 近親相姦を防ぐため欲望は抑圧され罪の意識に変わる【罪悪感】
  • 自らがお仕置きを受ける対象になることで罪悪感をマゾヒズム(快感)に転換する

ここで、空想がマゾヒズムに転換されるということは、弟や妹が叩かれるのを空想して満足するという第1段階とは違った、オナニー要素が出現するということじゃな。

「肛門サディズム体制」とスパンキングの関係

吉川

結局、女の子は願望を満たせなくて空想の内容を変化させた?

つまり、直接的な性的願望実現から、ちょっと間接的な快感を得られる方法に妥協したっていうことかな

幼児期の性器をまだ介さない性愛期間をワシは「前性器体制」と名付けた。この前性器体制は2つのステップから成り立つ。おしゃぶりをしゃぶることなどで得られる「口唇体制」そして、排便時に我慢した苦痛と排出する刺激を快感に感じる「肛門サディズム体制」(sadistic-anal oganization)じゃ。

【前性器体制】
フロイトの提示した幼児性愛の段階。性器をメインとした性的快感、エクスタシーが現れる前の段階。性器以外の器官に快感を見出す。

「口唇体制(口唇期)」「肛門サディズム体制(肛門期)」、そしてのちに「男根期」が追加される。

吉川

ちょ、ちょっと待ってよフロイト先生

今「叩かれる空想」をしているのは5、6歳の女の子でしょ? おしゃぶりや、うんちを快感に感じるって……もっともっと赤ちゃんだよね

そう。だからワシらはここに「退行 (リグレッション)」を見出すことができるのじゃ。つまり、少女は「父親からの愛」に性的な快感を見出す。しかし、その近親相姦的な性愛は達成されることはないので、抑圧されてしまう。その抑圧が、少女の性愛を幼児退行、つまり肛門サディズム体制に逆戻りさせてしまうのじゃ。

もちろん、「少女自分が叩かれる空想」は肛門への苦痛や快楽の刺激とは異なる。だが、わかるな?

吉川

「幼児期の排便の苦痛/快感」の代用として「おしりペンペンの空想」を使っているということですね!

この空想がマゾヒスティックであるためには、もう一つ、愛情興奮が関与する必要がある。それがすぐに見あたらないかのようなのは、性器的な関係ではないためである。その満足は、前性器的な肛門サディズム体制に退行した形、すなわち<お尻を叩く – 叩かれる>で得られている。お尻を叩かれることは「罪悪感と性愛の出会い」であり、それが「マゾヒズムの本質」である。

『現代フロイト読本 2』p.468 福本修、みすず書房

しかし、この第2段階は全て意識の水面下に抑圧されて、表に出てくることはないのじゃ。

「叩かれる空想」第3段階:解決を見出す

少女が抱く「子供が叩かれる空想」の最終段階で、少女は再び傍観者へと舞い戻るのじゃ。

ワシの女性患者のヒアリングの中で、この段階で現れる「叩いている人間」は、初めて父親ではなくなっておる。誰だか分からない大人であるか、もしくは教師などの父親の代理のような人物になるのじゃ。また、叩かれているの男の子であることが圧倒的に多いが、それもこれまでと違って特定の人物ではない。誰だか分からない男の子なのじゃ。

吉川

なんか急激にシチュがあいまいになりましたね

でも、誰かに誰かを叩かせているということは、これはマゾヒズムからサディズムに舞い戻って来た、ということでおけ?

見た目上はサディズムに見えるが、必ずしもそうではないとワシは踏んでおる。つまり、ここで叩かれている男の子たちは、少女自身の身代わりであり、実質マゾヒズムなのじゃ。

思い出して欲しいが、第1段階の「子供が叩かれる空想」はどのような内容じゃった?

吉川

えー……

「お父さんは、私ではない別の子を叩いていて、叩かれない私だけを愛している」かな

うむ。しかし、これが第2段階において後半の「お父さんは叩かれない私だけを愛している」が達成されないことで抑圧され、罪悪感からのマゾヒズムとなる。しかしそこで少女の空想は抑圧をかいくぐって、意識の上に表れる手段を見出す。

つまり、前半の「お父さんは、私ではない別の子を叩いている」を利用して、自らの代理として不特定の男の子を叩かせることで、マゾヒスティックな快感を間接的に実現しておるのじゃ。

まとめ

これがワシの提示する「子供が叩かれる空想」の3段階じゃ。ちなみに、最初にも述べたように、ここまでワシは女性患者の幼少期の空想を取り上げてきた。一方で男性患者へのヒアリングも行っておる。だが、やはりデータが少なすぎて成果を上げられなかったのじゃ。

こんな感じでよいかな?

吉川

フロイト先生、ありがとうございました

一応『子供が叩かれる』には、男児観点での話も載ってはいるものの、フロイト先生自身明確な結論を出しきれていなさそうなの雰囲気が伝わります……

というわけで、今回は上記の「叩かれる空想」3段階のご紹介くらいにしておこうと思いますね

吉川

私が個人的に興味を惹かれるのは、このフロイトの研究の対象者たちは、基本的には現実の体罰とは切り離されている、という点ですね

体罰とはほとんど無縁だったにもかかわらず、幼少期にお尻ペンペンのイメージを頭の中で膨らませている

その辺が、なんだか不思議で面白いな、と思ったのが、今回本作を紹介させていただいた理由でもあります

皆さんはどう思いますでしょうか?

読んでいただきありがとうございました。では、また次回。

本記事の参考書籍

ジークムント・フロイト『子供が叩かれる』高田淑 訳(『フロイト著作集 第十一巻』1984、人文書院)

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