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ちょっとキュンとする、性徴とSMをめぐるお話です。今回は、性に興味を持ち始めた少年少女たちを描く、ドイツの作家ヴェデキントの戯曲『春のめざめ』の作品紹介です。
100年以上前の作品ですが、娘に「子供はどうやってできるの?」と聞かれて慌てる母親など、現代となんら変わらない世界。その中で14歳の女子生徒ヴェントラは、友人の男子生徒メルヒオールに、自分のことを鞭で打ってほしいと頼みます。本人達が認知していない、BDSMの種の芽生えが、そこにはあります。
※今回は登場人物の表記や単語などは、岩波文庫・酒寄進一訳を参考にしていきます。
『春のめざめ』岩波文庫・酒寄進一訳
グーテンアーベント、
海外担当吉川でっす。
文学担当和泉でーす。
BDSMたんとー
では、今日も頑張っていきましょう!
この作品は、100年前ということもあり、ちょっと古くて地味なんですよね…… ただ、
ということを考えると、やはり情報としてまとめておきたいというところです。
19世紀末のドイツの作家、フランク・ヴェデキント Frank Wedekind (1864-1928)の代表作である戯曲『春のめざめ Frühlings Erwachen』。
ドイツのギムナジウムに通う、14歳の少年少女たちが、性に目覚め、成長し、高揚、もしくは破滅していく様を描いた舞台作品です。
ギムナジウムは、ドイツの9年制学校です。ひとまず今回に限っては、中学校、中学生、という認識でいればよいかと
ドイツ当局の検閲を何とか通し、初演に漕ぎつけたのが、1906年。そこから100年。ブロードウェイでミュージカル化までされました。日本でも、メジャーではないものの、稀に公演されることがありますね
本ページでは、2つの作品について言及しています。
原作戯曲(独語) | Frühlings Erwachen(1891) |
ミュージカル(英語) | Spring Awakening(2006) |
高貴かつ崇高なる学術的文化的文学的芸術的好奇心に基づき検索をする際は、ミュージカルの「Spring Awakening」の方がよいかと思います。映像資料などの情報量も多いですし、スパ的観点からも利点があります。理由は後述します。
舞台版は、100年前の舞台芸術であるのに対して、ミュージカル版は、現在のエンターテイメントであるので、基本的には、セリフや行動がより分かりやすいようになっていることが多いですね
それが原作者の意図を正しく映しているかはわかりませんが、ひとつの解釈として参考にできるはずです
本ページでは、基本は原作の内容に沿って行きますが、ちょいちょいミュージカル版のより分かりやすいないようも紹介していきます。
さて、古典で、しかも戯曲なので、作品の紹介がなかなか大変です。
作品の概要としては…… ギムナジウムに通う14歳の少年少女たちが登場人物で、男子8人、女子3人出てきますが、メインは男子生徒のメルヒオール、女子生徒のヴェントラです。この2人を中心に、性に目覚めていく過程を様々なテーマを使って描いています。
このページでは基本的に作中のサドマゾヒズムの話のみを扱います。他にも本作にはマスタベーションやSEXや同性愛や中絶など、色々なテーマがあるのですが、それらは割愛。
鞭のシーンを含めて、この作品とても面白くて好きなのですが、戯曲なので「とりあえず読んで」と言いにくいですね……
映画ならもっと気軽に「とりあえず見てみて」と言えるんですが
戦前に白黒サイレントで映画化しているらしんだけど、そんなのさらにハードル高いわな。ミュージカルの映画化も多いこの頃だから、ぜひ再銀幕化希望
割愛っていう単語、なんかエロいのです
ひとまず、関わる登場人物たちは……
メルヒオール(男):優等生の少年
ヴェントラ(女):同級生
ヒロイン。体罰を受けたことがない。
マルタ(女):同級生
家でさまざまなお仕置きを受けている。
ではシーンの内容を見ていきましょう。今回メインに紹介するのは、ヴェントラちゃんがメルヒオール君に、「罰として打たれる」ということを体験したくて、枝鞭で叩いて欲しいとお願いするシーンです。しかし、前振りのシーンが存在します。
最初に ① 全体の話の流れチャート その次に ② シーン内の会話 をあげますね。これで多少なりともストーリーがわかりやすくなってくれたらいいのですが…… 。
チャートの最後の、性行為へ、について。は、このサイトではあまり深追いしませんが、少し後の章で触れます。
ちょっと誤解がないように、最初に説明しておくと、ヴェントラは「どうしたら子供ができるか」も知らない、おぼこちゃんです。SMプレイみたいなことを試したいと思ったわけでは決してありません
2人を『ナナとカオル』 みたなイメージで取ってしまうと、作品の趣旨や、今回の特集の意図とずれてしまうので、そこは注意ですね
あくまでも、エロとは関係なく、14歳のヴェントラが「(なぜかわからないけど)叩かれてみたい」と感じた心の動きを探りたいわけです
では、それぞれの会話を追っていきます。
髪型変えたいけど、親が厳しくて……
明日、私が髪型変えてあげるわよ
やめてよ! そんなことしたら、パパにぶたれるし、ママに物置に3日は閉じ込められちゃう!
え、パパにぶたれるの?
ブラウスに青いリボンを付けておしゃれしてたら、ママに三つ編みを掴まれて、ベッドから床に引きずり下ろされて……
床で大泣きしていたら、パパにブラウスを破かれて……
叩かれるのは特別な時だけど
なにで、叩かれるの?
なにでって、色々なものでよ
それから…… 何か月か。
ヴェントラが森の中で少しうとうとしていると、同じクラスの男子、メルヒオールに出会います。時間がある2人は、ナラの木の下で横になって、少しおしゃべりをすることに。
そういえば、ヴェントラに聞きたいことがあって。よく、親に言われて貧しい人の家に行って、食べ物や服をあげているんだってね。
それって喜んで行っているの?
もちろん喜んでよ
でも、貧しい彼らは、君がいい暮らしをしているのをひがんでいるかもよ
だったらなおさらお世話をしなくちゃ!
そして、トピックは、ヴェントラが見ていた夢の話に移っていきます。
で、今までうたた寝して、何の夢を見ていたんだい?
下らないことよ。私は貧乏な家の子で、一日通りで物乞いをするの。でも、全然お金はもらえず、家に帰ってパパにバシバシ叩かれるの
そんな童話じゃあるまいし
そんなことない。 マルタなんて毎晩、傷ができるほど叩かれているのよ! 痛いでしょうに…… かわいそう
私よくそれを思い出してベッドで泣いているの。なんとか助けたいと何か月も考えていて。一週間くらいなら、喜んで代わってあげるんだけど
私、生まれてから一度も叩かれたことないの。だから叩かれるのがどんなことかわからないの。試しに自分で叩いたことはあるんだけれど……
虐待で訴えればいいんだ。叩くことで子供がよくなるわけがない
例えば…… こういう細い枝で……? 痛そう。ちょっと私のことを叩いてみて?
頭がおかしいのか!? 女の子を叩くなんて、ごめんだ
私がいいって言ってるの! お願い、私まだ叩かれたことないの! お願い、お願い!
わかったよ
ビシッ
あれ、痛くない
そりゃそうだ、そんなにスカートを重ね着しているんだもの
じゃあ、脚を叩いて
ビシッ
それじゃ、撫でてるのと同じじゃない、もっと強く!
……よし、君の体から悪魔を叩き出してやる!
メルヒオールは狂ったように枝を捨てて叩き始め、ヴェントラは悲鳴を上げる。そして、我に返ったメルヒオールは、逃げ去ってしまう。
……
そして、この出来事の後日。
干し草置き場にいたメルヒオールは、自分を探しに来たヴェントラに襲い掛かってしまいます。これに関しては原作では非合意(=レ○プ)で、ミュージカル版では合意の上の行為となっています。
ただ、原作の場合でも、相変わらず「子供の作り方」を知らないヴェントラは、その行為の意味も分からず、襲われたにも関わらず、なんだかふわふわしていて幸せそうです。
しかしその後、物語は考え得る限り最悪の悲劇へと転がっていくこととなります。が、それはまた別のお話。
メルヒオール君は、ヴェントラちゃんにいやいやながら、無理やりSMプレイもどき(しかもDOM側……)をさせられます。しかし、その次に2人きりのシーンでは、メルヒオール君の方から、わけもわかっていないヴェントラちゃんにSEXをしかけます。
小説と違って、公演を前提にしている作品は、2-3 時間など時間制約がある都合、本当に話の進行に必要なものしか、作者は書きません。そういう意味でも、この 「お試しSMプレイ」がメルヒスイッチを入れてしまったと見て、間違いないでしょう。
ヴェントラちゃんが「私を叩いて」なんていったせいで、メルヒくんがヴェントラちゃんを見る目が変わっちゃたっていう……
これはメルヒオールが全部悪いわけではないのです!!
考えてみてください! 男子中学生が、クラスの女子にこんなことを言われている&させられている状況ですよ!
その上で、自己制御しろなんて酷な……
んでわたしやねん
でも確かに、そう考えると、メルヒオール君の「頭がおかしいのか!?」は、あながち暴言とは言えない、正当な突っ込みだな
私ならその夜は回想だけで100回はこなせるのです!
あなたは男子でも中学生でもないでしょうが
いずれにせよ、人がサディズムかマゾヒズムに目覚める時、子供の時の何か衝撃的な出来事に端を発することも多いわけです
まさに、メルヒオールは、プチ・サディズムの街道を邁進しているわけですね
むぐぐ、あまり言うのもあれですが、愛おしいのです
ヴェントラはなぜ自分のことを叩いてくれと言ったのか。
それがこの一連のシーンの肝であることは言うまでもありません。おこさまのマゾヒズムについてのちょっと込み入ったお話は次回に回すとして、今回は『春のめざめ』という作品にフォーカスして、ヴェントラの気持ちを見ていきましょう。
話の発端となっているのは、家での母親や父親から様々なお仕置きを受けているというクラスメイトのマルタとのおしゃべりです。マルタの愚痴、というか告白を聞いたヴェントラは、明らかに衝撃を受け、深堀りをしようとします。
え、パパにぶたれるの?
なにで、叩かれるの?
といったセリフから、ヴェントラが、マルタが受けている仕打ちについてのある種の「興味」が伺えます。また、うたた寝で見る夢や、メルヒオールとの会話でも、繰り返しお仕置きというテーマが出てきています。
ここで、超重要なポイント。
マルタの受けているお仕置きを聞いたメルヒオール君は、
「体罰なんかで子供がよくなるはずはない。虐待で訴えるべきだ」
と、とても先進的でインテリ染みた意見を述べます。しかしその一方で、ヴェントラちゃんは、
「体罰なんてひどい、助けたい、なんなら1週間くらい私が代わってあげたい」
という、ぱっと見、友達思いに見えるけど、なんだか違和感を感じなくもない結論に到達してしまっています。
な、なんの解決にもなってない!
この少女ヴェントラの「根本的な解決をするのではなく、苦境を共有することで自己満足する」という考え方は、その直前の貧しい人たちの世話を喜んでする、という話にも表れています。
もちろん、もしお仕置きを一部身代ってくれたら、マルタはメンタル的には、ちょっとは嬉しいかもしれませんが、結局問題は解決せず。貧しい人を助けるのも、メルヒオールが言っているような「ひがみ」を増大させる「よけいなお世話」かもしれません。
こういった、苦境の人に手を差し伸べようというフィランソロピー・慈善的な考え方は、18世紀の啓蒙主義の時代に起こり、19世紀には中産階級まで広がっていきます。ちょっといい家に生まれた少女ヴェントラは、こういった「幸せな人間は不幸な人間を助ける義務がある」という考えを、日々の生活から刷り込まれている可能性があります。
そして、その考え方が歪みを生み、「自分ばかり体罰を受けないなんて、本当にいいのだろうか。自分も受けなくてはいけないのではないだろうか」という結論に至ったとしてもおかしくないだろう、と管理人は思います。
自己中はよくないけど、逆も過ぎたるは猶及ばざるが如しってね
他人が可哀そうだから、自分が幸せであることを不安に思う。まじで「いい家で育ったお嬢さん」感がするな
もう1トピック。
原作ではヴェントラがメルヒオールに叩かれるのがお尻であるとは明記されていないのですが、
スカートの上からだと痛くない → じゃあ既に露出している脚を叩こう
という流れで、最初はお尻を叩かれていると基本的には解釈されています。
また、ミュージカル版の台本では、最初の叩きから、ヴェントラがメルヒオールにお尻を突き出すということが明示的に指示されています。さらに痛くないということで、脚にはならず、スカートを上げてお尻をさらに出す、という、なぜか、もっとスパ側に微修正されています。
な、なぜだ……
(彼女はかれに尻を向ける。彼は考えたうえ、彼女を軽く打つ)『Spring Awaking Act 1 scene 8』
ヴェントラ:なにも感じないわ。
メルヒオール:多分、服の上じゃだからだめなんじゃない。
(ヴェントラはスカートをたくし上げ、メルヒオールに、もういくぶん剥き出しになった尻が見えるように差し出す)
ヴェントラ:じゃあ、脚を叩いて。
(She offers him her backside. He considers, then strikes her lightly)
I don’t feel it:
MELCHIOR: Maybe not, with your dress on.
(Wendla hikes her skirt, offering Melchior the prospect of her somewhat more exposed backside.)
WENDLA: On my legs, then.
あうっあうっ
ヴェントラは自分がメルヒに対してどんだけ扇情的なことをしているかわかっていないのです。天然ドジっ娘サキュバスちゃんのラノベお色気シーンなのです
性を含め、様々な刺激を受けて吸収する思春期の中学生。男子女子に限らず、何かちょっとした運命の歯車のイタズラで、その後を大きく左右していくことになります。
マルタちゃんが家で体罰を受けていなければ、ヴェントラちゃんのマゾヒズムは発現せず、よってメルヒオール君のサディズムは発現しなかったでしょう。
一方で、ヴェントラちゃんが家で体罰を受けていれば、彼女は体罰を嫌がり、メルヒオール君のサディズムは発現しなかったでしょう。
いや、ヴェントラちゃんが家で体罰を受けていたら、それを当然と思う彼女の性格から、ヴェントラちゃんのマゾヒズムは発現して、よってメルヒオール君のサディズムは発現したかも?
この、思春期の、かなりちょっとした性に関する掛け違い。それがバニラとサドマゾヒストを分ける分水嶺なのでしょう。作中の2人はあからさまなサディスト、マゾヒストというわけではありませんが、だからこそその芽は、誰にだってあることを示しています。
ちなみに、今回は触れていませんが、ドイツ(プロイセン、ドイツ帝国)における教育は、まあイメージにもあるかもしれませんが、色々な意味で強力なものでした
厳しい規律の中で、こうした性の抑圧への暴発が起こったとも考えられますね
ここまで長々と呼んでくれてありがとうございます