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サド文学を初めて読む前に知っておくべき3つのこと【マルキ・ド・サド入門】
こんばんは。芸術担当のエマです。
今年2024年は、サド没後210年に当たります。この機会にサドの残したものについて、ちょっと考えてみませんか?
BDSM担当の源です。まずは、余計な偏見なしに楽しめたらいいかもです
サドはごく普通の小説とかも書いていますが、それは脇に置いておいて、今回の特集は、”サド的な” 代表作に話を絞ります。
小説家マルキ・ド・サド先生は本当にやべえ奴なのか?
そもそも、サドの小説を読むのにサド本人の知識は必要か?
フランスの批評家ガエタン・ピコン(1915-1976)が「異常性欲のニュートン」と称したサド。彼はフランス文学、いや人類の文学史の中でも特にヘンテコなポジションにいる作家です。
でも一旦先入観はストップ!
サドの作品はあくまで彼の創作物で、本人がやべえ奴とは限らない。
まず、小説に限らず、作品の作者に関する情報は必要か、という問題があります。作者の性格がクソ悪くても、その創作が感動的で素晴らしかったら切り離して考えるべきだという人もいれば、作者を知らないと、作品の本質が分からないという人もいるでしょう。
現代の創作物に関しては、基本的には作品は作者から独立して単体で楽しめるべきであるとは思います。ただ、古典文学作品に関しては、やはり、作者が当時としてはある程度異質な才能・境遇であると思うので、おおざっぱなバックグラウンドは頭に入れていた方が面白いはずです。
例えば、ロシア文学『罪と罰』のドストエフスキーさん
彼は若い頃に死刑判決を受けて、銃殺台に縛り付けられたところで、皇帝からタイミングよく恩赦が出されるという、ドッキリ的な懲らしめを受けたりしているのよ
その臨死体験は間違いなく彼の作品に影響を与えているはずね
本人からしたら「お灸を添えられる」なんてレベルじゃない悪趣味さだけど、なんかちょっと粋なお仕置きなのです
激動の時代を生きた小説家の作品は、その激動が色濃く反映されてるよ。
ドン引きするほど逮捕されているサド先生
では、現実のサドはどのような人物だったのでしょうか。
現実のサドは、妻に宛てて「私はリベルタン(自由な思想家)ではあるが、犯罪者でも殺人者でもない」と手紙を書いています。どうも彼自身、
「自作に出てくる過激な登場人物」と「作者のサド自身」
を同一視されること危惧している雰囲気です。
はっ……
これは、普段は物静かで蚊も殺せない陰キャが、妄想の中で超イキって女の子を痛めつけているSSを書きまくってしまった黒歴史ニキかもです
うー、恥ずかしくてサドニキの本は読めないかもです
そうだとしても人類級の黒歴史じゃないかしら
ということで、サドの生涯を追っていきましょうか。
- 23歳の時に「度外れな乱交」で逮捕(ジャンヌ・テスタル事件)
- 28歳の時に女性を監禁、鞭打つなどして逮捕(アルクイユ事件)
- 32歳の時に娼婦毒殺未遂疑惑とソドム(肛門性交)の罪で逮捕(マルセイユ事件)
- 38歳の時からヴァンセンヌ監獄収監、ここから11年間監獄生活
- 44歳の時にバスティーユ監獄に移される
- 50歳の時にフランス革命が起こり釈放される
- 53歳の時に反革命者としてやっぱり逮捕される
- 54歳の時にロベスピエール失脚でまたしても釈放される
- 61歳の時に猥褻本出版で逮捕される
- 63歳の時、監獄からシャラントン精神病院に移され、他界するまで11年精神病院での監禁生活
- ……
そして、著作のほとんどは、合計約25年間に渡る監禁中に書かれている
妄想どころか、リアルでも十分やべえ奴だったのです! どんだけ捕まってるんですか!
拘束を解き放ったらいけない、ハンニバル・レクター博士みたいね……
サドは履歴書に書ききれないほど逮捕されてるよ。
でも、ここで重要なポイントです。
確かにめっちゃ捕まっています。しかし事実はいかようにでも書くことができます。
サドの「やべえ奴」感が人々によって作られた理由
上の経歴を見ると、確かに極悪犯罪者にも見えます。でも彼の起こした事件を、事実は変えずにちょっと別の書き方をしてみましょうか。
- 貴族である彼が物乞い女性に暴行して慰謝料を払う(なお日本ではまだ江戸時代)
- 娼婦に媚薬入りの「おならがたくさん出る」お菓子を食べさせたら、毒で殺されかけたと告訴される
- 召使のごつい男のアナルでやっちゃった
- 過激なエロ本を書いて世に出した
ちなみに、裁判記録によると、おなら菓子を食べさせても女の子は全然おならをしなかったので、サド先生はがっかりしたらしいのです
このお菓子はフェンネルというハーブのボンボンのようで、多分日本で言う「焼き芋」みたいな感覚のノリだったと思うのよ
全く清廉潔白とはいいがたいですが、世の中にはもっと極悪非道な奴らがいるはずです。
彼が生きていた当時も、多くの週刊文春が「上級国民さん、妻や少女たちを惨殺!!」みたいな記録をばら撒き、それが今日まで残るサドの悪評に繋がりました。作品の中でも、たくさんの人間を虫けらのように殺しています。
しかし、実際の裁判記録では彼が殺した人間は一人もいません。妻は逮捕されたサドを助けるために奔走していました。
もし、サディズムの元になったサド侯爵を、ドラキュラのような残虐な貴族だと思っていたら、それはちょっと違うかもです。もし彼が現代で、SM倶楽部で行っていたら罪にもなっていないことが多いです。
やはり約25年間もぶちこまれていたのは、彼の思想が、当時の体制側の価値観に相容れないものがあった点が大きいです。
なにせ、当時はアナルセックスをしたら死刑でした。(一応サドも、取り消されたものの一度死刑判決を受けています)。
サドの色々な意味で自由な行為が、保守的な人間たちの怒り(もしくは恐怖)を買ったのは確かでしょう。一方でフランス革命後は、民衆からの「貴族はこんなに酷い奴だ」という特権階級の貴族に対する憤りや批判の格好の餌食とされました。
というか、実のところ監獄にずっとぶち込まれていたというのは、親族が生活費金を払って政府に幽閉してもらっていたという事情もあったります。こんなやつを野放しにしておくのは家の恥だ、だから拘束してくれ、と。
サドは生まれるのが数世紀早かったのです
でも人々の考えは変わるものです
近い将来にマッチングアプリに「スパンキングOK」の項目が現れるのも夢物語ではないのです
ただし、法律で裁けるものとはまた別に、色々な資料や書簡を見るからに、サド先生本人の性格は到底いい奴とは言えない。収監中の態度も悪く、関わったらめんどくさそうな、自己中心的なオーラが伺えます。
その我の強さのおかげで、歴史に傷跡を残せたともいえるのですが。
25年間監禁といっても、それは人生の1/3ほどで、彼は74歳まで生きているのね
18世紀のヨーロッパとしては、誰がどう考えても長寿よね
やはり、性欲に正直なのは健康によいのかしら?
彼が長寿であることを知った時、他のヴェルサイユの貴族たちと違って、監獄で強制的に質素な生活をさせられたせいで長生きしたのかと思ってました
が、ストレスからか監獄内でも自費でお菓子を大量に差し入れさせ暴食し、複数の面会者から「あいつデブになった」との証言が……
サドのイメージが、ジョジョのポルポになったのです
『だが! 「アナルセックス」という行為に対しては命を賭ける』
とか言ってそうね。事実死刑とか言われてるし
サドは性癖も性格もアレだったけど、現代のモラルでは極悪非道というほどではない。どう思いますか?
サド文学を初めて読む前に知っておくべき3つのこと
では、サド本人の話はこれくらいにして、ここから彼の著作に入っていくウォーミングアップをしていきましょう。ポイントを3つ挙げて、順番に見ていくことにします。
① サドは女性器が嫌いで、アナルが好き
これはサドを過激なSMエロ小説だと思って読んだ人は、読んだら肩透かしを食らうポイントなんじゃないかと思います。
サドの小説に出てくる男たちは、またかと言っていいほど、前ではなく後ろを犯します。登場人物が異常とも言えるほど女性器に嫌悪感を示し、それを隠してアナルのみを差し出すよう命令するのは、サド文学ではお馴染みのシーンです。
一回だけならサドによるその人物のキャラ付けとも思えますが、サドの世界線では「セックス=アナルフ●ック」です。どう考えても彼自身そういう性癖です。
まあ、そもそもアナルセックスで死刑判決をされてるサドです。若い頃の裁判沙汰はもちろん、バスチーユ監獄での中年肥満サドも、アナルでオナニーをしている旨を半ば公然と手紙に記しています。
「女性器が嫌いで、アナルが好き」だけ見るとゲイなのかな? とも思った人、あなたはサド先生のことを、まだ過小評価してます
ごつい痘痕顔の下男の肛門を襲ったかと思えば、娼婦たちの肛門にもイチモツを突っ込む。さらに妻との間に4人の子供がいることから普通のエッチも嗜む。妻とのセックスは義務的なものかとも思いきや、メイドも孕ませる。かと思えば、女性をただ鞭打ちながら絶叫して射精したと裁判記録に書かれている。挙句の果ては、精神病院で56歳下の十代少女とイチャイチャしだして、日記に生理のタイミングまで記録しておく始末。
二刀流なんてものじゃないわ
雑食過ぎる
「サドは女性器が嫌いで、アナルが好き」というのは著作に満遍なく蔓延る思想から、多分そうだと思います。じゃなきゃ、アナルが好きはともかく、女性器が嫌いなキャラ付けはしないはず。
でも、もっと正確に言うと、「女性器は好きではないけど、NGではない」のだと思います。
……
……
あ、忘れてました。先ほど、おならが出るお菓子について述べましたが、スカトロも大好きで、裁判記録には女の子に浣腸をしたり、キリストの像に排便しろと要求したり、
もうかんべんしてほしいのです
あら、珍しくちひろが白旗を
「あ、アナルとか、もはや大したことないか」、と思えてきましたか?
OK、サド文学を読む準備万端ですね。
アナルセックスやスカトロは、サド文学の大事なモチーフだよ。苦手な人はくれぐれも無理しないでね。
② 日本語訳サドのスタンダード・澁澤龍彦版は面妖なエロ単語が多い
サドを語る上で絶対に外せないのが、サドの第一人者のフランス文学者・澁澤龍彦 (1928 – 1987)先生。
澁澤龍彦の名前はマストです。試験に出るので、知らない方はサドとセットで絶対に覚えましょう
因みに、今年(2024)から1万円札の顔になる渋沢栄一とは同じ一族です
半ば神格化されてそうな澁澤龍彦先生については、このページでは説明しきれないのでまた別途。
まさにディレッタントよ! 私も好きにサドの研究して生きてける金持ちの家に生まれたかったわ
なにはともあれ、澁澤訳は誤訳を突っ込まれることも多々ありながらも、マルキ・ド・サドの日本語版のデファクトスタンダードといっても過言ではないです。いや、
しかし、澁澤訳を読んで間違いなく遭遇するのは……
なんだかこの、エロいプレイをしているようですが、
出てくる日本語がよく分からないので、何しているんだかわからんです……
といった状況です。
例えば簡単なものでは、「鶏姦をする」なんてものがあります。
分かりますか?
—————
—————
別にニワトリをオ●ホにしているわけではない。
これは辞書に載ってます。辞書では「男色」ともかかれていますが、澁澤語では「鶏姦=アナルセックス」全般です。
よく分からんので、かえさんを呼んだのです、てへ
ふええ、
ちひろちゃん、こんな奇怪なとこに呼ばないでよ~
鶏冠ってのは「鳥の一穴」とよばれるように、鳥は穴が一つにまとまっていて、そこから来た言葉ですね
さっき話があったように、ヨーロッパでは宗教的な理由でソドム(アナルセックス)は禁止されていたんだけど、日本でも仏教によりアナルセックスは否定されていたわけです
八大地獄の一つ衆合地獄に落ちる条件の一つにソドムがあったりするので、興味がある人は調べてみてね
ちなみに、明治時代には「鶏姦罪」なんていう、アナルセックスを違法とする変な名前の法律もありました。
他にも澁澤版サドにはいろいろなエロくないエロ用語が出てきます。
言葉 | 意味 |
---|---|
鶏姦する | 肛門性交 |
栽尾する | 肛門性交 |
首尾する | セックスする |
玉座 | 女性器 |
菊座 | 肛門 |
腎水 | 精液 |
契水 | 精液 |
これらの日本語は澁澤龍彦が生み出したものではなく、江戸時代の春本などのエロものから拝借したものです。
「首尾」とかもおっきい国語辞典だと、実は意味載ってたりするんだよね
今の小説ではほとんど使われることがないと思うけど、司馬遼太郎とかの古めの歴史モノを読んでると遭遇する時もあるね。
……便意があるの婉曲で
「菊座がむずむずしてきた」とか
「昨夜かえでさんは、飲みすぎてベッドで聖水を垂れ流した」とか
ちょっ、何で知って……じゃなくて聖水は違う!
このような謎の言葉たちが、澁澤訳サドに頻出することで、残虐ポルノが謎の変身を遂げます。管理人が最初にサドを読んだ時、なんだかアバンギャルドな芸術を嗜んでいる感覚に襲われました。
一方で、以下のような指摘もあります。
原文で読んだときには赤裸々に感じられるサドに特徴的な暴力性やエロチシズムが、澁澤訳では戯作や春本の用語の難解さのために隠蔽されている点は否定できない。というのも、現代日本人にとって、江戸文学はあまりに縁遠いものであり、リアリティに欠けているからである。
『フランス文学の楽しみかた』(2021、ミネルバ書房)より石田雄樹 文
したがって澁澤のサドは、サドが本来持つ写実的かつ直截的な残酷さとエロチシズムを喪失する代わりに平凡な日常から乖離したある種ミステリアスな世界を現出することになったと言えるだろう。
そのようなサドは、原典が持つ生々しい毒を希釈しており、古めかしい語彙の多様にもかかわらず、フランス語で読むサドよりも読みやすくなっているとも言えるのではないだろうか。
この方はサド作品の残虐さとエロはリアリティがあると言っています。個人的には逆に思っていましたが、確かに原文を読めない身からしたら、リアリティに欠けた状態で読まされていると言われると、フェアな立ち位置で「そうだ!」とも「違う!」とも言えない。(くっ卑怯な……)
とはいえ上記の通り、原書の過激度が隠蔽されているのは確かでしょう。
それを踏まえると、こんなことが言える……かも
「マルキ・ド・サドの日本語版(少なくとも澁澤版)は読みやすく、身構えるほど残虐でもないし、エロくもない」
だから、手に取ること自体にそんなにハードルは設けなくていい
ハードル設けなさいよ!
サドの話にはセットで澁澤龍彦という文学者がついてくるよ。彼の翻訳はエロ単語の訳に江戸の言葉を使っているから、澁澤版サドはなんだか不思議な雰囲気だよ。
③ サドは団鬼六(SM小説)ではなく筒井康隆(エログロナンセンス)
もしサド文学を団鬼六のようなSM小説だと思っていたとしたら、それは違います。ここでいうSM小説はトップ/ボトムの関係性をもった官能小説としておきます。
管理人がサドを初めて読んだとき「なんかこの露骨さとドタバタ感、筒井康隆のエログロナンセンスっぽい」ということでした。
筒井康隆が分からんと言う方は……『時をかける少女』とか『パプリカ』とかがアニメ化されてるSFの大家です。団鬼六が分からんという方は…… まあ、スパ的にはそこまで重要じゃないので気にせずで。
結局、250年前の文学作品なので、そもそも写実的な描写という概念自体ありません。情景描写はある程度しっかりしていますが、痛みなどの心理描写は具体的ではありません。
淡々と鞭打てば「ひどく鞭打った」、指を切り落とせば「指を切り落とした」。そして指がないことに関する言及は、そのあとは一切ありません。
次の日には生えてきたんじゃない?
サドは逆に怖かったのです
一方で淡々としていないのが登場人物たちの「語り」。
サド小説は長い!登場人物達はやたらSM哲学語るしそれも長い!
残虐さもエロさも抑えられた作品のどこに面白さを見出すかは、ちょっとまた別の話で…… サドの小説に出てくる登場人物たちは、自分の思想を数ページに渡ってめっちゃ語ります。思想の塊です。
この手の小説は、この長い語りを面白いと思えないと結構辛いのではないかと。「マルキ・ド・サドは怖くない」と「マルキ・ド・サドは面白くない」は人によっては紙一重かもしれません。
我が国では最近、サディズム小説といわれるものが受容されていて、ほとんどどの書店の棚にも並んでいる。しかし、そこには、女を宥め、賺し、脅して楽しむ男と、最後には自分の本能の発動に負けてしまう女を巡るエロチシズムだけは横溢しているが、サドにみられるような哲学は全く欠如している。絶対者に対する恐れと反抗と服従は全くテーマになっていない。
『ソドムの百二十日』(マルキ・ド・サド / 佐藤晴夫、青土社、1990)
なんだかんだでサドは(もちろんエンターテイメントではなく、さらにポルノでもなく)やはり芸術作品なのでしょう。
彼が何を考えて作品を作ったかはよく分からないです。でも、200年前サドの作品を読んで「まあ確かに、宗教が言っているように清く正しく意識高く生きていれば、幸せになれるとかはウソだよね」とかなんか普段と違うことを考えたら、そこには十分作品の存在意義があるわけです。
筒井康隆もコロナ禍を作品のネタに入れる時に、常識に反して不謹慎であることを厭わない、そうしないと読者を驚かせられない、といったことを言っていました。
官能小説やSM小説は、内容はあれこれ違えど、結局は作品の目的やターゲットが明確な、ある意味テンプレ作品。でもサド作品は、サド作品しか与えることができないものを持っている、壮大なテンプレ外。誰に向けてとかでもなく、どう見ても描きたいから描いてるし。
サドのスパンキング描写をちょっと体験
最後にちょっとだけ、サドのスパンキングシーン関連描写をご紹介しておきます。やはり、作品がやたら長いわりにはスパの取れ高があるわけではないですが……
怒り狂ったものをジュスティーヌの手にゆだねると、これを刺激することを彼女に命じておいて、やおらヴェルヌイユは鞭をふりあげた。鞭打を加えるのも受けるのも、彼の最大の嗜好の一つなのであった。二十三分間休みなしに、彼の強い腕は、ジェルナンド夫人の美しい尻の上にふりおろされた。腰の周囲から踵の先まで、彼女の身体はずたずたに引き裂かれ、いたるところから血を噴出させた。
『新ジュスティーヌ』澁澤龍彦
いつも美しい若い娘たちに取り巻かれていた彼女は、娘たちを裸にし、その尻にできるだけ強い平手打ちをくれるのを無上の楽しみとしていた。折檻する理由を見つけるために、彼女たちの落度を捏造する。
『悪徳の栄え 上』澁澤龍彦
「おまえを折檻しなければ、あたしは許してやらないよ。さあ立ちなさい、そしておとなしくおまえのお尻をこっちに向けて出しなさい」
クレアウィルは、掌の窪みで美しい尻を軽くさすってから、五本の指の痕がくっきりと印されるほど強く、ぴしゃりと平手打ちを強く、ぴしゃりと平手打ちをそこに加えました。
『悪徳の栄え 上』澁澤龍彦
十三 本会の内部においては、尻の上に加えられる鞭打ちを除き、いかなる残虐な情欲も行使されてはならぬ。残忍な情欲は本会に所属する後宮において、その十全の発露を見るであろう。
『悪徳の栄え 上』澁澤龍彦
折檻してやるのさ……懲戒してやるのさ。この小さなかわいいお尻をぶって、頭の犯した過ちを懲らしめてやるのさ。(薄絹のガウンの上から、ウージェニーのお尻をたたく。)
『閨房哲学』澁澤龍彦
笞刑によって流産すべしと宣告された若い娘が、たちまち大公の手に捉えられました。大公はまず枝笞を、次には鉄の棘のついた皮房の鞭を手にして、約半時間ばかり、恐ろしい力で彼女の尻を打ったので、見る見る尻は血だらけになってしまいました。それから犠牲者は立たされたまま、手は上方に、足は床に縛り付けられました。
『悪徳の栄え 上』澁澤龍彦
【まとめ】サドは単純に世界を見る眼鏡の色がちょっと違っただけ、かも
結局、サドが創作に置いてサディストなのは確かですが(サドはサディストってなんか変な表現ですね)、彼が見ているのは、鞭打たれて苦しむ【シーン】を楽しむという狭視野のものではない。
もちろん、時代的に、シーンの細かな描写ができるほどリアリズムの技術が発展していなかったというのもあると思いますが、それでも彼が書いているサディズムは、
- 『ソドム百二十日』のような、支配者と被支配者の箱庭プレイ
- 『ジュスティーヌ』のような、悲惨に貶められた人生
という、大きな構造的な嗜虐に見えます。
でも、これって、他の作家にもよくある話なのでは? 特に古典小説は、喜劇よりも悲劇が圧倒的に多く、主人公が理不尽な目に合う事も珍しくはないでしょう。
ただ、彼はその人間が理不尽な目に合い、虐げられるストーリーに、当時宗教的にタブーだった異質なエロを突っ込んだだけなのかもしれません。いや、それは大きな違いだろ、と思うかもしれませんが、誰もやらなかったことを、何故かやってしまった。だから、彼の名前は今でも残っている。
だから、マルキ・ド・サドは、冒頭でも書いたように、リンゴは木から落ちる、という当たり前のことを見出した科学者にあやかり、「異常性欲のニュートン」と称されたのです。
本当に、人類史上唯一無二の存在なの。こんな特殊な有名人、他にはいないの。なんなのかしら、もう