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Punishment Code: File1 繁華街の妖怪少女 前編【スパンキング白書】

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「くそっ、なんでこんなことになったんだよ……」

 春日野輝道は息を切らしながら、東京の夜の繁華街の狭い裏路地を駆け抜けていた。左の脇腹がひどく痛む。先刻ブラックスーツに身を固めた男たちの振り下ろした鉄パイプが、彼の体をひどく打ちのめしていた。触れるたびに響く鈍い痛みが、骨が折れているかもしれないという不安を確信に変えていた。

 人が多い表通りを逃げれば奴等も下手なことはできなかったか。いや、いずれにしても結果は同じだっただろう。相手はどう考えてもカタギではない。いくら男とはいえ、大して体力もないゲームオタクの春日野が到底かなうとは思えない。

「やべっ……!」

 春日野はカラスが荒らしたごみ袋に足を取られ、そのまま夕立で濡れた路上に足を滑らせた。無様に横転し、地面に叩きつけられる。周囲にごみが散乱し、全身に痛みが走る。

 何とか手足で這いながら、近くに並べられていた大きなごみ箱の陰に向かう。どう見ても体を隠せていないが、この暗さならひょっとしたら気づかれずに見過ごされるかもしれない。春日野はうつぶせの状態から、上半身を起こし、アスファルトの壁に寄りかかって体重を預ける、そして、僅かに身を丸めた。

 耳に響くのは自分の荒い呼吸と、不規則な心臓の鼓動だけだった。だが、遠くから規則的に響く足音が、その音をかき消し始めた。靴底がアスファルトを叩きつける音が次第に近づいてくる。追手の男たちが灯した懐中電灯の光が、路地を鋭く照らし始めた。

 足音が近くをうろついているのが分かる。黒服たちも先ほどの音と周囲に散乱しているゴミを見て、このあたりで何かが起きたということを察したのだろう。彼らが春日野を見つけ出すのも時間の問題だった。そして、彼らに捕まったら、何をされるかは想像できない。彼の頭の中には、最悪の結末が思い浮かんだ。

 その瞬間、耳元に突然囁き声が届いた。

「死にたいんですか?」

 春日野は驚愕し、心臓が凍りついた。体は本能的に硬直し、恐る恐るゆっくりと声のする方を振り向く。

 春日野のすぐ横にならんで、高校生ほどの小柄な女性が体育座りをしていた。暗くてはっきりしないが、着物を着ているように見える。紙は短く乱雑に切り込まれ、顔には少しあどけなさが感じられる。そしてその2つの大きな目は、猫のように妖しく光を反射しながら春日野を見据えていた。暗闇に浮かび上がるその風貌は、まるで座敷童の様だった。

「な……」

「お前、死にたいんですか?」

 春日野は混乱し、震える声で「幻覚だ」と自分に言い聞かせた。今彼は物騒な奴等にボロボロになるまで殴られて逃げ回り、腐臭の漂う生ゴミまみれになりつつ、隣にちょこんと座っている妖怪少女に話しかけている。

「私はお前に聞いているのです」

 妖怪少女は、言葉を続ける。

「お前、紅響堂っていう広告会社の案件を受けて、そこで得た裏情報を面白がってネットに流したでしょう。ダメなのです。あそこは源本家のフロントカンバニーの一つです。お前はたかがSNS上での注目集めのために、自分の命を懸けたのです。死にたいとしか思えません」

「ち、違う、俺は…… こんなことになるとは思わなかったんだ」

 春日野は幻影と思いつつも、必死に言い訳の言葉を口に出す。少女は、肩を少し進めてふうっと静かにため息をつく。

「いい大人の台詞とは思えませんね。そもそもお仕事で得た情報をばら撒くだけでもアウトなのに。もうお尻ペンペンだけで済む状況じゃないですが、特別にお尻ペンペンで済ませてやります。助かりたければ、私に協力するのです」

「な、なんだって……?」

 春日野は意識が混濁する中、息も絶え絶えに聞き返す。少女はその目を少しだけ細めて、静かに言う。

 

「もう一度だけ聞きます。死にたいのか、生きたいのか。生きたいなら、私に協力するのです」

「おい、そっちの建物の陰はどうだ?」

 直ぐ近くで男の声が聞こえた。足音が少しずつ大きくなる。周囲の闇に眩い明かりが飛び交う。見つかるまで数秒の猶予もないだろう。

 悪魔と、いや妖怪と契約したら、死後に天国に行けるのだろうか。

 彼女は再びため息をついた。

「……はあ、どっちでもいいですが、決断力のない奴は―」
「協力する」
「ん?」
「協力する、助けてくれ」

 その言葉を聞いた妖怪少女は、にたっと口角を上げて歯を見せる。その様子は座敷童ではなく、まるで不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫のようであった。

 その瞬間、光が春日野の顔を捉えた。そこには2人の男が立っていた。

「おい、こいつこんなところにいやがったぜ」
「ったく、手間かけさせやがって。さあ、立てよこの野郎」

 ガタイの言い黒服の男が、春日野の襟首をつかんで持ち上げる。

「うぐっ」

 春日野はうめき声をあげながら首を回して下を見る。少し前まで並んでそこには誰もいなかった。あの幻覚も一時の心の慰めに過ぎなかったか……

その時だった。

 近くでガシャンガシャンという大きな音がしてたかと思うと、不意にエンジン音が聞こえてきた。軽量なエンジン特有の高音が混じる音。この繁華街の裏路地にしては、場違いなくらい軽快で、どこかリズミカルだ。近づくにつれてその音は徐々に大きくなり、狭い路地裏に反響し始める。しかし、その音の中に先ほどの低く落ち着いた座敷童の声とは正反対の、女性の甲高い叫び声が混じっている。

「きゃあ、ひゃ、ちょっと! あぶなっ!」

「おい、誰だ?」

 黒服の男たちが振り向く。路地の向こうから、オレンジ色のスーパーカブが突如現れた。ライトがまるで探照灯のように路地を照らし、エンジン音を響かせながらまっすぐ向かってくる。

「ちょっと、こんな狭い道で……あっ、滑る滑る! やだ、止まらない!」

 運転している女は必死にハンドルを握りしめて車体を制御しようとしている。しかしその甲斐もなく、カブは生ゴミや雨でぬかるんだ地面にタイヤを取られ、蛇行しながらこちらに突っ込んでくる。

「おい、待て、止まれ!」

 黒服の一人は少し困惑した様子で、速度を落とし始めたカブの前に立ちふさがる。そして両手で車体を押しとどめようとしたその瞬間――

「あっ間違えた!」

 カブは突如としてエンジン音を高鳴らせ、タイヤで泥水を巻き上げながら、全力で男に突っ込んだ。次の瞬間、男は「ドンッ!」という音と共に数メートル吹き飛ばされ、路地の端に並べられた鉢植えに頭から突っ込んだ。ガシャンと鉢植えが粉々に砕ける音が響く。

「あっ……ごめんちゃい。死んでないよね?」

 ようやくバイクを止めた女性が、上半身を瓦礫につっこんだまま動かなくなった男に向かって、すまなそうな声をかける。

 彼女はさっとバイクから降りると、体をほぐすようにうーんと体を伸ばしてストレッチをした。その仕草が、春日野には場違いなほど悠然として見えた。それからヘルメットを外しシートの上に置くと、ターメリック色のショートカットに、細縁の眼鏡をかけた顔が露わになった。年齢は20代半ばと言ったところだろうか。路地はカブのヘッドライトで明るく照らされ、真っ暗闇に慣れていた目を幻惑させる。

 女は、ゴミ箱の陰で縮こまっている春日野と、あっけに取られているもう一人の黒服に気付くと、2人を交互に見たあと、ああ、と声を漏らした。

「えーっと、そっちのボロ雑巾みたいなの方が春日野君ね? ども、助けにきました。七峰って言います、よろしく!」

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